第五高等學校

 前橋中學を出ると、彼はこんどは第五高等學校に入つた。そして一年ばかり熊本に行つてゐたが、その翌年第六高等學校に轉校して、岡山に行つた。そこでは獨法科に籍をおいてゐたが、二年のときパラチブスに犯されて數ヶ月病臥した。そしてそのまま中途退學をした。 それからは主に東京と前橋とで暮らしてゐた。(明治四十年代) その間、音樂家たらんと志して、上野音樂學校の入學試驗を受けるために、樂曲などの初歩を學んだが*[#「*」は行右小書き]、遂にものにならないで止めてしまつたりした。[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]* 伊太利の音樂家ザルコニイについてマンドリンを學んだりしたのは、しかしもつと以前のこと、――十八九のときのことである。その頃はまだマンドリンといふものが、はじめて三個ばかり銀座の十字屋に舶來せられたばかりのときで、彼はそのうち一つを買つた。そして日本人でマンドリンを習つた二番目のものだつたさうである。[#ここで字下げ終わり]

 前橋では、自分の家の小さい物置小屋を洋館に改築して、リノリウムなど敷きつめて、そこで無爲孤獨に暮らしてゐた。彼に漸く詩作の興の生じてきたのは、その頃のことであるらしい。

          ※[#アステリズム、1-12-94]

 丁度その頃(明治四十四年末)北原白秋の主宰する「ザムボア」(朱欒)が創刊せられた。それに彼は詩を投稿し、はじめてその詩が印刷されるやうになつた。 そのおなじ雜誌に、まだ無名の詩人だつた室生犀星の「小景異情」といふ詩を見出し、彼が驚異やむことを知らなかつたのも、その頃である。 彼はその時分のことを追想してかう記してゐる。「私は人眼をしのんで、利根川の石垣のかげや、砂丘の凹所にこつそり隱れてゐた。そこで私は悲しい感情にみちた詩をつくつたり、あるときは彼(犀星)の詩の載せてある雜誌を手にして、利根川ちかき松林の小路を旅びとのやうにどこまでも歩いていつた。」 そして彼は屡※[#二の字点、1-2-22]金澤にゐる犀星のところへ長い手紙を書いては、わづかに心を慰めてゐた。 その頃彼の書いてゐた、やさしい詩が、他日「愛憐詩篇」として「純情小曲集」の中に入れられたものである。

          ※[#アステリズム、1-12-94]

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